これからの人生どうしよう?
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このサイトを運営している「ゆき」です。
子どもが手を離れ始め、これからの人生、仕事、自分について、どうしよう…と、
迷いがありませんか?
さまざまな理由から「第二の人生を始めよう」「新しいことにチャレンジしたい」と
考えているのではないでしょうか。
私は在宅ワークで1年後月収20万円、2年後月収30万円を目指しています。
私が目指す未来は、経済的に自立し、家族も大切にしながら、好きなこともする生活です。
私は子育てと仕事の両立に奮闘してきました。子どもの成長を楽しみたいし、仕事もしたい。でも、いいところどりだけはできず、思うように両立できず、葛藤や挫折を経験してきました。
モヤモヤしている間に子どもはどんどん成長し、気づいたら私の出番は減り、子どもが手が離れ始めました。寂しい…ポカンとした空虚さを感じました。
そして、これから「私の人生どうしよう?何がしたいんだろう?また働けるんだろうか?」と考えていく中で、「お家で働く在宅ワーク」に出会いました。ここから第二の人生に向けて、新しいスタートを切りセカンドキャリに挑戦しようと思います。
同じように40代から新たにチャレンジし、経済的な自立を目指しながら、自分らしい働き方をしたくて悩んでいる方の、参考になればうれしいです。
幼少期~中学生:男の子っぽい子
私は千葉県のサラリーマン家庭に生まれました。
家族は父・母、2歳上の姉、5歳下の弟の5人です。私は3人兄弟の真ん中で、一番手が掛からなかった子だそうです。
私の性格は小学校低学年のころは引っ込み思案で、とてもおとなしい子でした。
高学年になるにつれて活発になり、学級委員長に立候補するくらいになりました。
とにかく外で遊ぶことが大好きで、原っぱの上から段ボールをお尻に引いて、滑り降りる遊びをよくしていました。公園にはビワの木やザクロの木があり、登って食べていたのを覚えています。
あまり女の子らしくなく、男の子っぽい子でした。(それは今でも変わらず。)
中学が終わるころまではのびのびと育ち、順風満帆な生活でした。
高校生:家族の変化
しかし、私が高校1年のとき、大きな問題が起こりました。「家族のケンカ」です。
私よりも頭の良かった姉は、とても優秀で親や周囲から期待されていましたが、高校受験に失敗し、ほとんど知られていない高校に進学しました。その結果、姉はやる気を失い、途中から不登校になり、最終的には高校を中退。
教育熱心だった両親にとっては、大きなショックでした。そして、その頃から、私の辛い日々が始まりました。両親は毎日のようにケンカ、ケンカ、大ゲンカ。
父が大声で怒鳴り、母が言い返し、そのやりとりが延々と続く。怒鳴り声と言い争いが怖くて怖くてたまりませんでした。私は布団をかぶり、耳をふさいで、その時間が過ぎるのを待つしかありません。
そんな環境の中、家族仲のいい友達をうらやましく思う一方で、私は「早く自立したい。仕事がしたい」と強く思いました。この時からバリバリ働くことに憧れを抱くようになりました。
姉が不登校になり、高校を中退。そこから両親が大ゲンカの毎日が続く…
私は「早く自立したい。仕事がしたい」とバリバリ働くことに憧れを抱く。
大学~就職:絶好調
私はなんとか滑り止めの大学に合格し、解き放たれたように自由な生活を送りました。
その頃には姉は大検を取り、短大に通っていたので、家族は落ち着きを取り戻していました。
単位をちゃんと取り、門限までに家に帰りさえすれば、親からは小言は言われません。
ホテルの結婚式場でアルバイトをし、友達とテニスサークルで遊び、海外旅行にも行き、
ここぞとばかりに学生生活を満喫しました。
大学卒業後は、憧れていた外資系企業の一般職に就職。
最初に配属されたのは、サーバーなどの機器を管理する部署でした。
仕事はまったくちんぷんかんぷんでしたが、同期が多く、仕事後の飲み会や週末の旅行を楽しむ日々。絶好調でした。
細かい規則や縛りがなく自由な社風で、私の性格にぴったりでした。先輩・後輩の関係があまりなく、お局さんもいない環境も気楽でした。
2年目からは秘書に配属され、年々できることが増えていきました。英語のスキルをつけるために、通訳学校のクラスにも通い、充実した日々を過ごしました。
4年目からは、コンサルタントのプロジェクト配属を管理する重要なポジションを任されました。
残業した分だけ給料がもらえ、仕事をすればするほど給料は上がりました。一般職には正社員と契約社員が混在していましたが、私は正社員として契約社員をまとめる立場に。
私は、バリバリ働き、上司とも馬が合い、信頼されて仕事を任され、やりがいを感じていました。仕事をすることが本当に楽しかったです。
しかし、転職が多い業界だったので、6年目には100人近くいた同期の数は半分以下に。
友人たちが結婚や転職など新たな選択をしていく中で、「このままでいいのかな…」と漠然とした不安を抱えながら、仕事を続けていました。
大学生活を満喫した後、外資系企業の一般職に就職。
順調にキャリアアップし、バリバリ働き、やりがいを感じました。
退職の決断:死と生
そんな矢先に、母が乳がんと診断されました。とてもショックでした…。
会社近くの専門病院に入院することになり、仕事後に病院へ通う生活が始まりました。
父は仕事で忙しく、姉には小さな子どもが2人、弟は入社したばかりで余裕がなく、母の通院や入院に付き添えるのは私だけでした。
周りには事情を話しませんでしたが、「最近やせたけど大丈夫?」と心配されるほど、ハードな毎日でした。
段々と疲弊していき、仕事に対するモチベーションが下がっていきました。社内には、一般職でキャリアアップした先輩はいなく、ロールモデルは存在しませんでした。
キャリア面談の相手は上司の男性マネージャーで、私の不安や迷いなどを相談できるような環境はなく、仕事を続けた先の未来ががまったく想像できませんでした。
そんな中、母は日に日に弱っていき、肺への転移が見つかりました。末期と診断され、さらにがんと糖尿病が同時に進行していて、治療が難しい状態でした。
そしてある日、私にこう言いました。
「私のことよりも、自分がやりたいことをしなさい」母の前では気丈にふるまいましたが、涙があふれて止まりませんでした。
そして、私は決意しました。
母の最期に向き合おう。
母が楽しみにしているウェディングドレス姿を見せてあげよう。
残業続きの仕事と母の付き添い、結婚式の準備を並行するには無理があり、上司からは引き止められましたが、私は退職を決意。
結婚を早め、入籍と結婚式を行いました。
しかし、それから4カ月後に、母は他界。
そして、母の死からまだ2カ月。
気持ちの整理もつかないまま、第1子の妊娠が判明しました。
この子は私の寂しさを埋めてくれるかのように、私のもとにやってきてくれました。
この存在にどれほど救われたことか。
仕事よりも母の最期と向き合うことを決断し、退職。
結婚式から半年もたたないうちに母は他界し、そして、その2カ月後に第1子を妊娠。私はこの子の存在にとても救われました。
再就職:仕事復帰への挑戦
赤ちゃんとお母さん、おばあちゃんの家族3代で楽しそうに過ごす姿を見かける度に、母がいない寂しさや孤独を感じましたが、出産・育児は順調でした。
しかし、子どもが1歳になった4月、周りのママ友が一斉に育休を終えて仕事に復帰。それを見て、焦りを感じました。
ちょうど夫の給料カットも重なり、「働かなければ」と仕事復帰を決断。
母が私に言ってくれた言葉「自分がやりたいことをやりなさい」に背中を押されました。
とはいえ、5月からの保活では保育園に空きがあるはずもなく、同時に就活も進めなければなりません。
何を頼ればいいのかもわからず、渋谷のマザーハローワークを訪ねました。そこには保育スペースがあり、子どもを見てもらいながら仕事探しができる環境が整っていました。
紹介された仕事に10件ほど応募しましたが、なかなか決まらない…。
「1歳の子どもがいると厳しい」という現実は理解していたつもりでも、実際に不採用が続くと想像以上に辛く、心が折れそうになりました。
一方の保育園探しは、無認可保育園を中心に回りましたが、どこも満員。予想はしていたものの、やはり空きがない…。とにかく片っ端から電話をかけて見学に行き、空き待ちに登録しました。
そんな中、ある保育園を見学した際、「1人空きがあります」と言われ、驚きました。認証保育園だとは知らずに訪れたのですが、ちょうど繰り上がりがあり、まさかの5月に空きが出たとのこと。
こんなチャンスを逃すわけにはいきません。「1カ月以内に仕事を見つけること」を条件に、6月から入園が決定。
あとは仕事探しです。
通勤と勤務時間を最優先に仕事を探していたところ、知っている会社が求人を出しているのを発見。働きたい熱意を伝え、めでたく再就職が決まりました。
また働けることに期待が膨らみ、とてもワクワクしました。
子どもが1歳を過ぎたときに再就職を決意。
仕事探しは難航しましたが、なんとか保育園と仕事を見つけ、再就職が決定。
また働けることに期待が膨らみ、ワクワクしました。
ワンオペ育児との両立:限界を超える
夫は地方での仕事がほとんどで、転勤ではなく基本的に出張スタイル。週末にしか家に帰ってこない生活が10年以上続いています。
そのため、子育てはほぼワンオペ。
働けることに喜びを感じながらも、認証保育園から認可保育園に転園するために8時間勤務は絶対条件だったので、9時~18時までのフルタイム勤務。
19時までに保育園に駆け込むのに必死な日々でした。
一番大変だったのは、子どもの体調不良。保育園1年目はとにかく発熱の嵐。熱がでるたびに子どもの体調が心配なことと同時に、どうにか仕事に穴をあけないように手を尽くしました。
しかし、近くに頼れる親も親戚もおらず、夫も不在。唯一頼れるのは区の病後児保育で、何度も何度もお世話になり、何とかやりこなしました。
そんな状況でも「絶対に子どもは2人欲しい」という思いがあり、2人目を授かり産休・育休を取得。
社員10人にも満たない小さなベンチャー企業だったので、産休・育休を取るのは私が初めて。妊婦や子育て中のママに対する理解があるとは言い難い環境でしたが、それでも制度を利用させてもらえたことには、今でも感謝しています。
復職後は、想像をはるかに超える過酷な日々が始まりました。
近所に病児保育が新設されて、発熱中でも子どもを安全に預かってもらえたのは、とても助かりましたが、考えが甘かった。
もちろん病児保育をフル活用させてもらいましたが、それでも手が足りません。
さらに、夫は海外勤務となり、4週間に1回、数日しか帰国しません。
そして、上の子が小学校に上がったときに、「小1の壁」にぶち当たりすべてのバランスが崩れました。
フルタイム勤務はとても無理で、1時間の時短で9時~17時勤務に変更。
毎朝4時に起きて夕飯の準備まで終わらせ、子どもを保育園に連れて行き、仕事をし、猛ダッシュで18時までに保育園、18時15分までに小学校の学童に迎えに行く毎日。学童はいつも最後のお迎え組でした。
そこから、夕飯、お風呂、小学生の宿題…気づけば寝かしつけの時間。私自身も毎晩寝落ちしてしまい、常に寝不足で、どんどん痩せ細っていきました。
そして、ついに限界が訪れる。
2人の子どもが時差で水疱瘡にかかり、もう打つ手がなくなりました。
ただでさえ時短勤務で肩身が狭いのに、さらに1週間以上休むことになり、罪悪感しかありません。
辞めたくはなかった。
でも、これ以上迷惑はかけたくなかったし、この生活をワンオペで続けられる自信がなかった。悩みに悩んだ末、退職を決意しました。
ワンオペ育児と仕事の両立に奮闘し、
どうしても子どもは2人欲しく、2人目を授かり産休・育休を取得。
「小1の壁」にぶち当たりすべてのバランスが崩れ、
時短勤務にするも限界が訪れ、悩んだ末に退職を決意しました。
パート:やりがいとの葛藤
半年程は主婦生活を送りながら、ハローワークに通い、子育てと両立できそうな仕事を探しました。そんな中、ちょうどよいパートの仕事を見つけました。
それは、病児保育でお世話になった保育園の事務職。自転車で10分という好立地で、理想的な条件でした。
正確には「事務ラウンダー」として、2カ所の保育園を担当する仕事で、もう1カ所も自転車で20分、電車なら3駅というという近さでした。
週3日の1日6時間で扶養内で働くことになり、下の子は保育園を退園して、延長保育のある幼稚園に転園しました。
仕事にはすぐに慣れ、仕事のない平日に子どもをプールや子どもが入りたがっていたドッジボールチームに通わせることができ、習い事をさせてあげられない罪悪感から解放されました。
しかし、しばらくしてコロナが流行。
世の中が自粛ムードになっても、保育園は必要とされ続け、事務の仕事は通常運転。同じパートでも保育補助の人は休めても、事務は休めなかったのが不満でした。時には子ども2人に留守番をさせて仕事に行きました。
多忙な男性園長先生に代わって業務をどんどん引き受け、かなりの業務をこなしましたが、時給はわずか10円しか上がりません。
さらに、女性園長先生の愚痴聞き係で、就業中はずーっとスタッフや保護者、本社の愚痴を聞き続けました。正直、イヤでたまりませんでしたが、穏便にすませるために何も言わずやり過ごしました。
「こんなに効率を上げて、愚痴を聞くのを我慢して働いているのに、評価はされないのか」と、モヤモヤした気持ちを抱えるようになりました。
5年ほど働いた頃、保育園の運営会社が上場。社内のシステムが次々と変わっていきました。以前は子どもの都合に合わせて柔軟に調整できていた勤務シフトが、固定化されてしまいました。
本社からの管理が厳しくなり柔軟な働き方ができなくなった上、上がらない給料に、この先私の望む状況に変わる可能性を感じられず、辞めることを決意。
パートの仕事に再就職。
どんなに頑張っても評価されないことと、愚痴聞き係にモヤモヤ。
この先望む状況に変わる可能性を感じられず、退職する。
専業主婦:ドン底からの脱出
専業主婦生活が1年経ち、上の子は中学2年生、下の子は小学5年生となり、少しずつ手がかからなくなってきました。
私は自分が何をしたいのか、どうしたらいいのか悩みました。
仕事に復帰しようかな…でも今さら仕事が見つかるんだろうか?
パート以外に仕事なんてあるのかな…もう45…
このまま何もせずにいる自分に耐えられない気持ちがありました。
迷いながらも、以前お世話になった渋谷のマザーハローワークを訪れました。
しかし、当時の担当者はすでに退職されていて、履歴書のデータが入ったパソコンも壊れてしまっていました。最初から履歴書を作り直さなきゃいけないのか…めんどくさい…。
気が進まないまま仕事探しを続けていたある日、
「あなたらくしオンライン秘書で働きませんか?時間と場所を自分で選べる働き方」という言葉が目に飛び込んできました。
オンライン秘書なら、私にもできるかもしれない…
時間と場所を選べるだなんて、最高!!と興味が沸き、すぐにスクールの無料体験会に申し込みました。
しかし、説明を受けるとすぐに入会するかどうかの選択を迫られ、ドン引き。
正直、まだ入会するまでの覚悟はなく、まずは説明を聞きたかっただけでした…少し迷いながらも申し込みませんでした。
その後も、仕事探しに対してモチベーションは上がらず、悶々と過ごしました。夏休みは子どもが家にいるので、父の別荘に行ったり、塾や部活、週末の少年野球で目まぐるしく過ぎ去りました。
夏休みが終わり学校が始まると、また一人の暇な時間が増えました。
ネトフリも見飽き、やることがない日々。
どんどん自分がみじめに思えてきて、「私の存在価値って何だろう?」と虚しさばかりが募りました。人生で一番落ち込んでいたかもしれません。
そんな中、なぜか気になり続けていたのは、あのスクールでした。
インスタやパソコンで何度も見ているうちに、「もう一度無料体験を受けてみよう」と決意。すでに心の中で入会を決めていました。
説明を聞き、「家で働く在宅ワーク」という働き方が自分にピッタリだと思いました。
「ここで新しいスキルを身につけて、私が働きたいスタイルで仕事ができる!」と確信。
すぐに夫に相談し、入会の意思や料金のこと、仕事を再開したい気持ちを伝えました。
夫も快く賛成してくれ、ついに入会。
子どもが少しづつ手を離れて、仕事に復帰しようか悩む中、
「時間と場所を自分で選べる働き方」という広告を目にして、理想的だと思う。人生で一番の落ち込みを経験し、もう一度働きたいと、スクールに入会する。
新たな挑戦:在宅ワークで自立へ
仕事をしたいと思ったときから今まで、家族とキャリアの両立に、時には諦めたり妥協しながら模索し、私なりにベストを尽くしてきました。
「在宅ワーク」という働き方をもっと早く知っていたら、こんなに苦労せずに、両立できたのではとも思います。
2人の子どもが手が離れつつあるといっても、社会人になり自立するまで、あと10年程あります。子どものサポートをしながら、「在宅ワーク」なら仕事を続けていけると思います。
これからは自分の時間を仕事に使いながら、家族との時間も大切にできる働き方に「在宅ワーク」で挑戦します。
なぜ私がそこまで頑張るのか?
その理由は、私が人生で手に入れたいものは、高校生のときにうらやましかった「仲良し家族」と強く願った「自立」だからです。
今のところ家族みんな元気で仲良しなので、あとは自立です。おそらく私は人生の折り返し地点にいて、妥協している時間はありません。
そのために、在宅ワークに必要なスキルである「WEBスキル」を学びます。
まずはスクールの「3カ月間のCamp」に申し込み、規則正しい生活リズムを整え、学習習慣を身につけてスキルアップしていきます。
新しいことを学ぶべることが新鮮で、ワクワクしています!
目標は、1年で月収20万円、2年で月収30万円を達成すること。
そして、経済的に自立しながら、家族も大切にし、好きなことをする生活を手に入れます。
ここから、私の挑戦が始まります。
ゼロからWEBスキルを身につけ、在宅ワークでキャリアアップを目指す道。
よかったら応援してくださいね!
目標はWEBスキルを学び、
在宅ワークで1年で月収20万円、2年で月収30万円を達成すること。
そして、経済的に自立しながら、家族も大切にし、好きなことをする生活を手に入れます。